聖霊の内的証印

冒瀆的な人々は宗教を臆見としか認めないので、愚鈍な、あるいは軽薄な信じ方にならないように、モーセと預言者たちが神の霊感を受けて語ったという証明を理性によって立ててほしいと求める。

だが、これに対し私は、御霊の証こそ一切の理性に優るものだと答える。というのは、神のみがその語りたもうた言葉において御自身についての相応しい証人でありたもうように、この御言葉も御霊の内的な証しによって証印されないうちは、人々の心に信頼を勝ち取ることができないからである。

カルヴァン「キリスト教綱要」1-7-4


キリスト教の根拠の最終的に行きつくところは、理性による証明ではなく、聖霊の内的な証印になる。聖霊の働きに寄らなければ、人はキリスト教を信じることも神を信じることもできない。理性からでは神にたどり着くことはできない。

何のための人生か

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